子どものころ、蓋を開けると音の鳴る、箱型のオルゴールを持っていました。
母がどなたかの箱根土産で頂いたものを、私が貰い受けたのです。
寄木細工の渋いものでしたが、嬉しかった。
内側に赤いビロードが貼られたその箱は、何か特別な宝物をしまっておくもの、という匂いがしてわくわくしました
一番初めに入れたのは、冬にみかんを剥くとたまあに出てくる
小指の爪ほどの大きさの小さな房(薄皮に包まれたその果肉を「じょうのう」というそうです)
箱のビロードの上に直に置いて、一人眺めては楽しみました。
今、考えますと、何でそんなものを?と不思議なのですが、
当時の私にとっては「宝物入れ」にしまっておくほど価値のある、
大切なものだったのでしょう。
でも、みかんの小さな房が宝物だなんて、
ちょっと恥ずかしいとも思っていました。
ですので、誰にも見せたことはありません。
やがてそれは干からびて、箱の中には他のものを入れるようになりました。
遠足で拾ったどんぐりや、
公園で見つけた四つ葉のクローバー、
小さなビンに入った星の砂・・・。
入れるものは違っても、どれもがその時々で、私が大切にしていた宝物でした。
援助者として大切なことは、その人の「価値」を「理解し続けようとする」こと
精神保健福祉士の勉強をしていたとき、ある先生がおっしゃった言葉です。
とても心に響いたので、今でもよく思い返しています。
その方が、
何を大切に思っているのか、どこに「価値」をおいているのか、
それを、せっかちに有る一点においてだけで理解したつもりになるのではなく、
「理解し続けようとする」こと。
自分を理解してもらえたら嬉しい。
でも、その時は理解してもらえなくても、継続的に理解しようとしてくれていると感じられたら、
誠実な味方を得られたようで、自分に自信が持てるようになるかもしれない
そこには、○○が出来たから、××が出来ないから、などという理由はありません。
あるのは理解しようとしてくれている、そんな安心感。
これはもしかして、
ACを受け入れるということも、
おんなじなんじゃないかなあ、と思うのです
ACの方が、
その時々に大切にしていたことを、
感じ取ってしまったことを、
守りたかったものを、
ご自身が「理解し続けようとする」
「価値」が流動的ならば、その変化した過程も理解しようとすればいい。
×なんて、ないと思うのです。
きっと馬鹿にされると思ってしまい、いつも一人で眺めていた「宝物入れ」
「こんなものを」と笑うのではなく、
どうして小さなみかんを大切にしているのか、理解しようとしてくれる人がもしいたら、
私はきっと、ちょっと恥ずかしいその気持ちごと、
箱の中身を見せていたかもしれません。
寄木のオルゴールはいつの間にか無くなってしまいましたが、
私の中の「宝物入れ」には、
みかんの房を大切にしまったオルゴールを持った少女が未だに存在します。
ですので、今、
大人になった私は、
こうかな、ああかな、と、
彼女を「理解し続けようとする」人でいたいと思うのです。