神話にとらわれない

神話にとらわれない

神話はもはや俗言に過ぎない

「残す人って、自分の管理が
きちんと出来る人なんだなって思う」

 

カフェでアルバイトをする娘が、
こんなことを申しました。

 

そのカフェでは簡単な食事も提供していて、
食べ残しの片付けをするとき、
そう思うのだそうです。

 

「うん、そうだと思うわ」と私。

 

廃棄する食べ物の量の多さを批判される日本。
何という不謹慎な!と、ご立腹された方、

 

親(・・わたくしでございます)も親だし、
しつけもまるでなっていない!と思われた方、

 

ごもっともでございます
ご不快な気分にさせてしまいまして、
申し訳ございません

 

一応私も、娘たちが幼い頃には、
お茶碗に残ったご飯粒を許しませんでした。

 

「お残しはいけません。
好き嫌いはいけません。
どれほど沢山の人の手がかかっているのか、
そのご苦労を考えなさい。」

 

キレイに平らげることを
美徳とし育てて参りました

 

それが
絶対的に正しい
そう信じていたのです。

 

ところが数年前から、
それは
必ずしも「絶対」ではないと思うようになりました。

 

きっかけは、
メンタルの調子が整わなくて
身体の消化機能がうまく働かず、
一度に沢山頂くことが難しくなったことです。

 

無理して頂けば、
必ず吐き気や消化不良を起こします

 

お付き合いで食事をすることは恐怖でした

 

量を調整できる場合は、
びっくりされる程
少なく取り分けてもらうことで自己防衛

 

「そんなちょっとでいいのー!?」
と引かれてしまうことも

 

調整ができない場合には、
無理して平らげ
帰路でトイレに駆け込むことになりました

 

食欲旺盛でキレイに美味しそうに完食する方は、
見ていて本当に気持ちの良いものです。

 

でも、そうしたくても、
頂けないのです

 

心の緊張は驚くほど身体に影響します。
体調が悪いときは、無理する必要はありません。

 

小食の友人がいて、
彼女との外食は気が楽でした。

 

よく観察すると、
店内には他にも残す方はいらっしゃる

 

丁寧に隅によせて残すなど、
私も無理をしないようになりました

 

そう言えば小学1、2年生くらいのころ
給食を食べきれず、
居残りさせられたことが何度かありました。

 

三月生まれの私は
背の順でも前から二番目、
どうにも量が多すぎたのです

 

アルマイトの食器に盛られたおかずは、
どんなに頑張っても一向に減らず、
一口ごとに牛乳で何とか流し込みました。

 

どこからかやってきたKくんとSくんにからかわれ、
半べそをかきながら格闘した記憶が(笑)

 

食べ物の大切さを学ぶことや、
好き嫌いをなくすためのしつけの一貫として、
当時給食の居残りは珍しくない時代でした。

 

「残してはいけない」という「神話」に、
縛られていた側面もあったのかもしれません。

 

もちろん、そうした「神話」があるからこそ、
人は自らを律することが出来、
節度やマナーを身に付けることができるのでしょう。

 

でも、「神話」に縛られすぎることは、
時に自分を必要以上に追い込んでしまう。

 

「母親神話」、「三歳児神話」、「安全神話」・・・
私たちの周りには、色々な「神話」がございます。
その「神話」は決して永遠のものではなく、
そこにとらわれすぎる必要は無いと思うのです。

 

その時々で、柔軟に対応する
あるいは、思い切ってそこから離れてみる

 

それでいいんじゃないかなあ

 

大切なことは、
「自分自身を守ること」
そう私は思うのです。

 

かつて「神話」を取り込んでいたはずなのに、
いつの間にか冒頭の考えを持つようになった娘を、
何だか少し、頼もしく思いました
・・しつけの出来ていない親でございます

 

「神話」:かつて絶対と信じられ、脅威の的とさえなっていた事柄。
(現在は俗言に過ぎないという観点で用いられる)
―三省堂国語辞典より―