そうでしたと思い立った昨日、お雛様を出しました
2月の終わりに慌てて出すのが常ですので、
これでもかなり早目です。
厄災を託し川や海に流すための
形代(かたしろ)だったものを、
現代のように
雛人形として飾るようになったのは、
室町から江戸初期にかけてのことだそうです
我が家のものは
お内裏様とお雛様お二人だけのものですが、
付属品の数はそこそこあり、
保管用の箱には
薄紙にくるまれた小物が沢山詰まっています。
箱から取り出しながら、
一つひとつが丁寧に包んであることに
我ながら感心しました
箱の隙間を埋めるために
くしゅくしゅと詰め込んであった紙は、
娘が中学時代の学級通信のプリントでした。
数年入れっぱなしにしてあったもののようで、
懐かしく当時を思い出しました
過ぎ去った時間に思いを巡らせつつも、
今はただ、
お雛様を飾るためだけの時間
誰に急かされることもなく、
私がしたいと思ったことを
私のペースで進めることが許された、
私のための小さな優しい時間
考えてみると以前の私は、
その場の時間を楽しむ余裕が
ほとんどなかったように思います。
例えば外で友人達と集っているとき。
私の頭の中は、
家に着かなければならない時間のことで一杯でした。
何時何分にこの場を失礼しなければ
その時間が迫ってきても
お開きになりそうもないときには、
場を白けさせずに
私だけ失礼するには
どうしたらよいかと気を揉みます
言い出せずに時間が過ぎてしまうと、
何とか帰るきっかけをつかもうと必死になり
どうにかついた帰路では、
帰宅が遅れた言い訳と
その埋め合わせをどうするか、
こちらも必死に考えるのです
恐らく私には
家の手伝い以外のことに、
この私ごときが自由に時間を使うなどということは、
大間違いで大罪である
という理由から、
「楽しんではいけない」
という中核信念があったのだと思います。
そんな信念に縛られるなんて馬鹿げてる、
そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ですがこんなこともあるのです。
強烈に刷り込まれ肥大化した中核信念は、
本人の思い込みを強化する不思議な力を持ちます。
もちろん
有益な働きをする中核信念も沢山ありますが、
こんなふうに、
生きやすさを阻害するものは、
破滅的に
私たちの観念を縛り付けてしまうようなのです
友人達は皆、
帰宅時間を気にする様子もなく、
リラックスし
その時間を楽しんでいるように見えました。
そしてそれが「普通」であり、
私は異常なのだと感じました。
異常と感じても尚、私には
それを変えることなど
決してできないと確信しておりました
ですから私には、
問題なく社会に適応した
「普通」の人の振りをする必要がありました。
そのためには、
友人達と集ったという
「事実を残す」ことが重要でした。
楽しむなどという、
見えない内側の部分なんてどうでもいい。
大人になり子どもを持つようになっても、
私のその信念は強固でした。
今私は、
少しずつ、少しずつですが
楽しむことを覚えるようになりました。
ほんの、
小さなことでいいのです。
わずかな時間でいいのです。
日常の場面の瞬間を
楽しむコツをつかめたら、
今より少し、
生きやすくなると思うのです。
飾り終えたお雛様にぼんぼりを灯すと、
リビングが柔らかく華やぎました。
「おー、いいねえ」
そう呟きながら
娘に送信しようと写真を撮っているところへ、
「おー、いいねえ」
と主人がにっこり。
小さな優しい時間を楽しめると、
小さな優しいおまけも付いてくるようです